謗法の地にある御本尊に功徳はないのか?
絶対勝利の創価学会の皆様こんばんは!☺️
絶対勝利もいいですが、死後の事を考えたことはありますか?😌
臨終は遅かれ早かれ必ず訪れます。
僕が仏法を志したのも死後の問題を解決したかったからなんですね。
絶対勝利の人生の何が絶対勝利なのかは知りませんが死後に閻魔様に地獄行きを告げられたら絶対勝利もなにも無いわけです。
それで、なんとしてでも正しい正法に巡りあって千仏来迎や大聖人様直々のお迎えなどはおこがましいですが、なんとか、そこそこの場所には行きたいな〜と思うんですね。
それでいろいろ突き詰めてみると、やっぱり大聖人様の仏法は三大秘法に尽きるんですね。
よく、学会では師弟不ニとか、師の心を我が己心としとか、いろいろ精神論を重んじますが、そんな素晴らしい学会哲学も間違った三大秘法だと身も蓋もないわけです。
もちろん、それは日顕宗にも言えますよ。
池田先生も戸田先生も、究極の指導は、正しい御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えるだけ!
それ以上の指導はない!と言ってますもの。
だから日顕は極悪人だ!日精は造仏だ!稚児カンズのいた大石寺だ!日応は女好きだ!だとかの歴史を勉強しり、精神論みたいな指導を学ぶより、はたして自分が受持している御本尊様は大丈夫かな?
と思索したほうが臨終のためになると思うんですね。
もちろん僕も、僕が現在、受持している御本尊様は本当に大聖人様の謂われるところの正しい三大秘法なのか常に気を引き締めていますし、こうして、学会の方の意見も聞いて参考にしています。
それで、今回は学会の言う、謗法の地にある御本尊には功徳などないと言う教学ははたして本当なのか考えていきたいと思うんですね。
では、身延日蓮宗にある大聖人様真筆の御本尊に功徳はあるのか?
について考えます。
学会の教義に則れば大聖人真筆の御本尊は紛れもない本門の本尊なんですね。
でも身延山という謗法の地にあるから成仏得道の功徳はないと言うわけです。
だから身延山に参拝して大聖人真筆の御本尊様に南無妙法蓮華経とお題目を倡えても功徳はないんですよね?理由は謗法の地だから。
じゃあ身延山になかったら功徳はあるんですか?
でしたら、帰りに身延山のお土産屋で大聖人様真筆の御本尊様のコピー本尊を買って、自宅にご安置して信力行力を出だして南無妙法蓮華経と唱えたらどうなりますか?
身延山から出てますし自宅にご安置すれば本門の本尊の功徳があるんじゃないですか?
僕は学会の現在の教義なら功徳があると思いますよ。
逆に、数ある御本尊様の中から唯一受持しません!
と宣言した大石寺の本門戒壇の大御本尊を唯一無二だ!と宣言している日寛上人が書写した本尊を拝むより全然理に適ってると思うのですがどうでしょうか?
謗法の地にあるから御本尊に功徳が無いというのはどう考えてもおかしいと思うんですね。
だって、謗法の地と言ったら世界中、何処に行っても謗法の地じゃないですか?
逆に謗法の地に御本尊があることこそ南無妙法蓮華経の意味じゃないのかな?と思うんですね。
大聖人様がお一人で立宗されて、広宣流布を始められた場所は何処に行っても謗法の地ですもの。
大謗法の大石寺にあるから大御本尊は受持しないし、功徳もない。
では、大石寺の敷地から1センチだけ外に出たら功徳が出るのかな?
う〜んやっぱりおかしくないかと思うんですね。😵😵🙎🙎