そうか教学研鑽シリーズ②🥳
師弟共戦の学会の皆様こんにちは。
今日はランさん(学会員)から頂いたご意見を考察してみようと思います。
前回の記事に対しこんなご意見を頂きました。まずは紹介します。
»»日蓮大聖人は、「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏 御書全P557)
と仰せですが、この御文に照らして「己心本尊に南無妙法蓮華経しても全く本末転倒」という主張は、大聖人の仰せと違うと思うのですが、それついてのご考察をお願いします««
そうですね。
我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇め奉りて。
本尊として間違いない我が心とは日蓮大聖人の己心ではないでしょうか?
我がという部分を日蓮に変えてみて下さい。
ちょっとやってみますね。
»「日蓮が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて日蓮が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり««
おー、間違いない!これはまさに御本尊です。
だいたい、日蓮大聖人が我が己心って言ったら日蓮大聖人の事じゃないんですかね?
まさか、野菜泥棒さんはちがうでしょ?
次に、そうですね〜、我がの部分を野菜泥棒さんに変えてみますね。
»»「野菜泥棒が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて野菜泥棒の己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」««
いや〜、なんだかしっくりきませんよ。
やっぱり本尊とは大聖人様の己心一択じゃないですかね?
確かにもったいなくも己心の妙法蓮華経は同じだとしても、野菜泥棒さんと大聖人様ではおなじではないと思いますね。
大聖人様の己心と野菜泥棒さんの己心では理屈は同じでも事実はちがうんじゃないっすか?
だから事実として大聖人様の己心の妙法蓮華経を本尊と崇め奉ることによって、理屈として同じ野菜泥棒さんの己心の妙法蓮華経の仏性が呼び呼ばれるということじゃないですかね?
本尊たるべき我が己心の妙法蓮華経とは大聖人様の己心の妙法蓮華経だと思うんですけどね。
だから戸田会長もこう厳しく指導してるんですね。
われわれが日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係ない雲の上の存在であり尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賤(げせん)の者のつたない日常生活現象とは、およそかけはなれた存在であると拝することは、誤りである。
尊上無比の大御本尊は、じつに日蓮大聖人の御当体そのものであられるのである。
またこれとは反対に、
本尊とはまったく他所(よそ)に求むべきでなくて、
自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは、等しく自涌の菩薩であって、日蓮大聖人とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢のきわみであり、大謗法である。
(戸田城聖全集)
あ〜、やっぱり、自分が仏と同じと考えるのは大謗法みたいですよ。
なかなか難しいですな。😵