飲んだくれ戸田城聖と僕😁
こんばんは!元気ですかー!(猪木風)
あ〜、猪木もいないし八代亜紀もいない世の中です。一生は儚いもんですねー😌
今日はランさんから日寛さんの師匠は日精さんじゃないのではないか?
と異議申し立てがあり、そうだっけ?と調べたところ、ランさんの仰る通りでした😆😆😆🙏🙏🙏🙇🙇🙇
すいません!もう、僕って面倒くさいから調べないんですよね。覚えてる事を書いちゃうんで記憶違いをやらかします。
ランさん御指摘その通りみたいです。🙏
まぁ、でも直接の師匠ではありませんが、日寛さんが日蓮大聖人様の仏法を志すことになったのは日精上人の説法に心を打たれたからなんですね。これはホントです。(笑)
ですから直接の師匠ではなくても慕っていたのは間違いないし、大恩人であるのは間違いないでしょう。
僕で言う戸田城聖みたいなもんかな〜?(笑)
いやね。僕は誰かに誘われたり、おしえてもらったりして日蓮仏法を志した訳ではないんです。
死んだらどうなるかが知りたくて、いろいろ我流で調べて、仏教に行き着いて、家が創価学会だったから、たまたま、書棚に眠ってる御書や創価学会の書籍を読み漁って、勝手に自分自身を折伏して勝手に題目をあげだしたふざけた人間なんですね。
それで日蓮大聖人の御書講義集を読むんだけどアホな僕には通解や講義もなかなかわかんないんですよ。
そんな時に戸田城聖全集を読んだんですが、
はっきり言って戸田城聖に折伏されたようなもんです。
池田先生の広布と人生を語るとか書籍も読みましたが、全然ピンときませんでしたもん。
なんだか、普通にいい事書いてあるだけね。みたいな。これだったら、僕でも書けそうみたいな(笑)学会員さんすいません🙏🙏
でも戸田城聖全集は電撃バップ!
おお〜、日蓮大聖人御書全集の意味が繋がる繋がる〜♪
で、大聖人仏法を志す因になりました。
だから、戸田城聖の野郎が飲兵衛だろうが仮に愛人囲おうが僕にとっては大好きな大恩人なんですね。
だから、日顕宗に改宗して、大石寺に初めて行ったらまっ先に戸田城聖の墓に行って手を合わせてお礼を言いましたし、今も大石寺に行ったら必ず戸田城聖のお墓に手を合わせます。牧口さんはたまに手を合わせます。😅
僕は戸田城聖にあうどころか僕が生まれたときには亡くなっていたので、接点はないけど、大好きな大恩人なんです。
創価学会の活動を始めると自動的に池田先生が師匠になって池田門下生になるんですけど、形は池田門下生でも心は戸田城聖が好きなんですね。
もちろん日蓮大聖人様がぶっちぎりで好きなんですけど、人師は戸田城聖が好きなんです。今は日如上人が師匠ですけど、心は日顕上人が好きです。
人の心は自由なんで、形を持って強制できないんですね。
もちろん日如上人を師匠とすることになんの問題もないですけどね。
長くなりましたが、要するに日寛上人にとって日精上人は大好きな恩人だと言うことなんですね。
日寛上人の造仏に関して破折文は日精上人宛に書かれたものですか?
日精を切る!みたいな。日精上人破折文ですか?違うでしょう。
創価学会が勝手にそう当てつけただけではないのですか?
以下に日寛さんの行動を記しておきます。
総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、開眼遊ばされている。
久成坊の御本尊造立は亨保六年四月、寂日坊の御本尊造立は亨保七年五月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。
また『文底秘沈抄』には、
而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無しとある。
後は人として日寛さんの心を鑑みれば、日精上人に日寛さんの破折文を持って腐すのは人の道にハズレていると僕は思うんですね。
答えにはなってないかもですが、僕は猊下みたいな日蓮大聖人から連なる偉大な方々の化儀に講釈垂れたくないんです。
もしも、日精上人が曼荼羅正意で造仏論者じゃなかったら、あの世で後悔するのは日寛上人を使って日精上人を腐した人なんですね。
僕は学会員さんは勇気あるな〜と感心しています。
日亨上人の見解については、あ〜日亨上人の見解はそうなんだ〜と思うだけです。
日亨さんの見解に僕のような信者が是非は問えません。へ〜そういう見解なんだね〜
くらいなものです。😆